嶺上の桜雲

読書・デレステ・自己その他に関する日常的な思索など

浦久俊彦『フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか』感想

 

フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか (新潮新書)

フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか (新潮新書)

 

 

 ハンガリーの小村で生まれたフランツ・リスト(1811-1886)は、6歳の頃に音楽好きの父親が聴かせたピアノ曲で才能を開花させ、3年後には公開演奏会を行うまでに成長する。地元貴族から奨学金を得て一家総出でウィーンに来たリストは、この地でカール・ツェルニーやアントニオ・サリエリらの手解きを受けた。その後数年間はフランス・イギリス・スイスなどをコンサートツアーで巡るも、療養先の北フランスにて父親が腸チフスで急死してしまう。

 

 生活の糧に追われるリストは弱冠15歳にしてピアノ教師の職に就くが、今度は伯爵令嬢・カロリーヌとの失恋を経て2年間鬱病に苦しむ破目になる。しかしこの間に聖書を始め哲学や宗教思想・文学を中心に様々な書物を読み漁ったリストは、七月革命で勃興したブルジョワたちが集うサロンに颯爽と登場した――それも伯爵夫人・アデーレとのスキャンダルを携えながらである。彼はピアノ演奏の超絶技巧だけでなく、前述の2年間に身に付けた教養やオーラ溢れる美貌、更には優れた会話術といったあらゆる武器を駆使して瞬く間に名声を博したのだ。

 

 その後リストは伯爵夫人・マリーとの逃避行、8年間に及ぶヨーロッパ全土でのコンサートツアー、ワイマールの宮廷楽長として約10年を過ごした作曲生活、聖職者となった晩年の宗教生活等を経て、1886年バイロイトでその一生を終えた。タイトル自体は随分と扇動的だが、内容は真面目にリストの生涯や当時彼が活躍できた背景を体系的かつ詳細に描いており、門外漢の自分でも読んでいて非常にためになることが多い。良くも悪くもそのいかがわしさで忌避されてはならない一冊であると個人的には強く感じた。

 

 著者の浦久氏はまえがきで「『ピアノ』『十九世紀』という、ごくふつうのキーワードで西洋音楽を眺めたとき、フランツ・リストは、間違いなく最重要人物のひとりだ」とされるにもかかわらず、日本ではリスト関連の書籍が絶版本を除きたった1冊しか刊行されていない事実を示す。彼は本書を「なぜ、リストはここまで語られないのか。なぜ、リストは理解されないのか。その理由は何なのか。それが不思議で、書きはじめた」そうだが、実際問題としてこれらの原因は一体何であろうか。

 

 その答えと思われるいくつかの要素が、第五章にて示唆されている。リストが往時の音楽界にもたらした最大の功績は、恐らくピアノリサイタルの発明だ。著者によれば「当時のコンサートは、ひとつの公演のなかに、ピアノあり、歌曲あり、室内楽ありという、いわば混合型コンサートのこと」を指すものであり、「交響曲やピアノ協奏曲のような、いくつかの楽章から成る楽曲は、途中に他の曲を挟んだり、一部しか演奏しないということも普通に行われていた。その常識を、誰ひとり変えようとしなかった」らしい。この本で時折リストのライバルとして引き合いに出される「あのショパンでさえ、生涯にただの一度もソロ・コンサートは開催していない」のだ。

 

 よって「現代のピアニストは、作曲家と分離されている。ピアニストは、すでに作曲された楽曲を演奏するための、演奏の専門家ということになっている」との著者の定義を借りれば、「史上最初のピアニストは、リストということになる」。無論リストは超絶技巧練習曲を筆頭に様々な楽曲(ピアノ曲以外を含む)を作曲しているが、この「史上最初のピアニスト」として上述の「8年間に及ぶヨーロッパ全土でのコンサートツアー」を行った点が、彼を作曲家以上にピアニストたらしめていると思われる。

 

 加えてリストは「バッハ、モーツァルトベートーヴェンシューベルトという『古典』を頻繁に演奏した」。メンデルスゾーンの証言では、1830年当時のミュンヘンが「最もましなピアニストでさえ、モーツァルトハイドンが、ピアノ曲を書いていることさえ知らない」有様であった事実を踏まえれば、この「啓蒙」によって「古典」を広めた点もリストの偉大な功績の1つだろう。今日のピアニストがこれら「古典」の使い回しを職業として成立させているのは、その先駆者であった彼に負うところが大きいと言っても決して過言ではない。

 

 そしてリストが成し遂げた

  • ピアノリサイタルの発明
  • 「古典」の普及

 こそが、逆に著者の疑問を生み出した土壌ではないかと自分は考えている。彼はまえがきで「ホール施設やオーケストラの数が西洋並みの水準になっても、輸入後百年以上経っても、いつまでも西洋音楽が日本に根付かないのは、コンサートなどの『情報』を増やせば、音楽を普及できると考えているからだ」と日本のクラシック音楽界を批判している。明治時代の日本は諸外国に追い付こうと様々な文化や技術を取り入れていったが、クラシックにおいては既に現地では常識と化していたであろう上記2点を、その背景抜きに「情報」として導入したのではあるまいか。これではリストは偉大な「一ピアニスト」に甘んじても何らおかしくはない。

 

 略年譜には1883年1月に「ワイマールを訪問した伊藤博文(当時41歳)が、リストの演奏に感動し『日本に連れて帰りたい』というが、側近から諌められ」たとある。氏がリストの功績を知っていたかどうかは今となっては知る由もないが、仮に知らなかったとすれば日本のクラシック音楽界の現状はある意味当然なのかもしれない。