嶺上の桜雲

読書・デレステ・自己その他に関する日常的な思索など

アリストテレス『ニコマコス倫理学』感想

 

ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)

ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)

 

 

ニコマコス倫理学〈下〉 (岩波文庫 青 604-2)

ニコマコス倫理学〈下〉 (岩波文庫 青 604-2)

 

 

 アリストテレス(B.C.384-322)は、あらゆる人間的な営みの目的は「幸福」つまりはよく生きることに集約され、そのためには人間に固有の卓越性を最大限長く働かせることが必要だとする。そしてその卓越性(=徳)には「知性的卓越性(徳)」とそれに従属する「倫理的卓越性(徳)」とがあり、後者に関しては習慣付けによって身に付けることを奨励した。同時にアリストテレスは徳において過超と不足はいずれも悪徳であり、その中間にある「中庸」を目指すべきだとしている。

 

 以降アリストテレスは勇敢や節制といった各種の倫理的卓越性および正義について考察し、次には学・技術・知慮などの知性的卓越性を取り上げる。更には節制とその過超である放埓に関わる抑制・非抑制と、正義に関連する各種の愛をそれぞれ論じ、最後は快楽論に触れた上で総論にて『政治学』への橋渡しを行った。全十巻の構成で上巻は第一巻から第六巻まで、下巻は第七巻から第十巻までを収録している。

 

 前述の通りこの本は上下巻に分かれているが、今回で上巻のみだと4回、上下巻だと2回通読したことになった。よって下巻はさておき、上巻には流石に自分の身になったと感じる部分も多少は増えてきている。その中でも今回読んでいく中で特に個人的に目を引かれたのが第六巻の知慮について述べた箇所であるため、以下に私見を交えながら書いてみたい。

 

 まず前提として、アリストテレスは物事を「それ以外の仕方においてあることのできないもの」と「それ以外の仕方においてあることのできるもの」とに分類した。知慮はもっぱら後者に関わり、アリストテレスはこれを「人間的な諸般の善に関しての、ことわりがあってその真を失わない実践可能の状態」と定義している。この状態を活かしている人の例としては「家政・経済にたけたひとびと」や「国政にたけたひとびと」などが挙げられており、要は全般的にやりくりや立ち回りが上手い人を指していることが分かる。

 

 これだけだと随分と印象が良さそうに聞こえるが、アリストテレスは知慮における徳の重要性もきっちりと指摘している。ここで彼は「与えられた目標へ導くべき諸般のことを行なって首尾よくこの目標に到達しうる能力」として知慮の下位概念である怜悧を紹介しているが、続けて「もし、それゆえ、目標がうるわしくある場合にはそれは賞賛さるべき能力なのであるし、もし目標があしきものであるならばそれは邪知にすぎない」と断言するのだ。

 

 そして自分が思うに、今の日本では知慮ではなくこの怜悧が幅を利かせているのではあるまいか。これに関しては教育・学術関連で特に目立つ傾向にあるだろう。つい先日重力波を観測した功績に今年のノーベル物理学賞が贈られたが、その際の記者会見では「重力波は何の役に立つのか」という質問が出たそうだ。昨年の医学・生理学賞を受賞した大隅良典氏が「『役に立つ』という言葉が社会をダメにしている」と言ったばかりなのを考えれば、昨今の虚学を軽んじる風潮は随分と根強いものがある。

 

 また最近になって評価の対象になり始めてはいるが、大学での学業成績や学習内容は長らく就職活動ではあまり重視されてこなかった上に、それが世間の常識にもなっていた。そのせいか2,3年前にはL型大学における職業訓練校化の提言や、文部科学省による文系学部廃止の誤報などが大騒ぎになる始末である。悲しいことに日本がこうなった遠因は明治以降の対外情勢にあると自分は捉えているのだが、そちらについてはまたの機会に譲るとしよう。