嶺上の桜雲

読書・デレステ・自己その他に関する日常的な思索など

神戸市立中央図書館にある『子供の震災記』は改竄後のものだった

 ここでは以下に載せた2つの記事を読んだ前提で話を進めていくため、この記事が初めての方は先にこちらをご覧頂きたい。

 

vergil.hateblo.jp

 

hibi.hatenadiary.jp

 

 2つ目に挙げた日比氏の記事において、発禁処分を受けた「特500-641」より1ヶ月早い版の『子供の震災記』が、神戸市立中央図書館と鳴門教育大学附属図書館にあるという指摘がなされている。この件で興味をそそられた神戸市民の自分は、是非ともこの目で確かめてみたいとの思いですぐさま中央図書館へと足を運んだ。結果的には無事に当該本を手に取って調べることができたので、そこで得られたいくつかの情報を参考に供したい。

 

 ざっと全体に目を通してみたところ、「朝鮮人」「鮮人」などの表現は一切見られなかった。また id:Vergil2010 氏が記事中で引用したと思しき箇所は改竄後の表記ばかりであった点から、この版は改竄された「526-64」系だと考えられる。しかしこの本の奥付には

  • 大正十三(1924)年四月二十五日 印刷
  • 大正十三年四月三十日 発行

 と印字されており、以降に発行された発禁版の「特500-641」とは辻褄が合わない(額面通りに受け取るなら改竄後?→改竄前→改竄後という無理筋な流れになる)。更に奇妙なことに、発行期日の横には

  • 大正十三年五月五日 再版発行

とも書かれている。わずか5日で再版を発行するに至った経緯とは、一体どういうものであったのか。

 

 前述した日比氏の記事では1924年5月19日の発禁後に内容が改竄されたと見立てられているが、発禁を受けた当の「特500-641」および改竄後の「526-64」には本来明記されて然るべきはずの版情報が存在しない。従ってあくまで個人的な憶測に過ぎないが、実際には改竄がこの5日間で果たされ、発禁処分自体は諸都合により5月19日までずれ込んだとは考えられないだろうか。なお図書館の窓口スタッフに伺った話では、当時の再版は今のそれとは違い特に内容の変更がなくとも行われていたらしく、詳細は分からないとのことであった。

 

 また本書が何故か神戸市立中央図書館にある理由だが、蔵書印には

  • 神戸市立図書館 大正十三年七月十八日

 と示されているため、阪神・淡路大震災関連で神戸やその近くにある鳴門に寄贈された可能性は間違いなくゼロである。となれば発行元の初等教育研究会がこの作文集の出版には挫折したものの、同じ師範学校であった当時の兵庫御影師範学校(現・神戸大学発達科学部)に何らかの事情で移したのかもしれない(多分相当に薄い線だとは思うが)。いずれにせよ自分は専門家でも何でもないので、今後は日比氏と本件の発端となった id:Vergil2010 氏のご進展をお祈りしたい。

 

自身のアスペルガーについて

 自分はアスペルガー症候群である(診断名は広汎性発達障害、現在は自閉スペクトラム症の方が一般的か)。保育園にいた時分から鉄道に大ハマりし(今はそれほどでもないが関心自体は残っている)、学校ではグループの一員にはなれてもその中心からは常に外れていた辺り、症例としては割と典型的な類だろう。大学に入った頃には既に自覚していたものの、しばらくはアスペルガーか否かを確定させる必要性を感じていなかったためか、最終的に診断が付いたのは去年の4月となった。

 

 診断の際に行った各種検査の1つに、ウェクスラー成人知能検査(WAIS)がある。これは世間一般で誇張されているそれとは違う本来のIQを測る検査であり、実際にMENSAの入会資格にも使用されている。WAISの詳細はリンク先に載っているので閲覧は各自の判断にお任せするが、「自分は何が得意で何が苦手か」を後述する上で多少なりとも参考になると思われることから、以下に自身の数値を紹介しておきたい。

 

1.IQ

  • 言語性IQ 130
  • 動作性IQ  98
  • 全検査IQ 118

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2.群指数

  • 言語理解 129
  • 知覚統合  93
  • 作動記憶 137
  • 処理速度 100

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3.評価点

<言語性>

  • 単語   15
  • 類似   13
  • 知識   17
  • 理解   12
  • 算数   16
  • 数唱   15
  • 語音整列 17

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<動作性>

  • 絵画配列 12
  • 絵画完成  4
  • 積木模様  9
  • 行列推理 14
  • 符号   10
  • 記号探し 10
  • 組合せ   5

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 恐らく一連のグラフ中でも特に目を引きやすいのは、言語性IQの全般的な高さと、動作性評価点における「絵画完成」(=視覚的細部を感知する能力)と「組合せ」(=部分を全体に統合する能力)の異様な低さではあるまいか。これらの傾向は検査結果の報告書でも当然のように言及されているため、適宜引用しながら説明に役立てたい。前者については「言語理解・言語表現に優れており、語彙に関する知識を深めることや、言語的知識の活用が得意」だとしているが、これは言語性評価点の「知識」(=一般常識の程度)が高い点とも合致する。

 

 一方で後者に関してはそれぞれ「『見落としが多い』と指摘される行動に繋がる」、「試行錯誤が苦手で、見本・モデルがない課題や正答のない物事に取り組む際には、困難さを感じる」など見事に自分の痛いところを突いている。実際何かしら物を探す時に苦労するのは日常茶飯事であるし、あくまで推測に過ぎないが人の顔を覚えにくいのもこの影響を受けていると個人的には考えている。またこうしてブログの記事を1つ書き上げることでさえ、優に数時間はおろか1日の大半を費やしている場合もザラなのが実情だ。しかしそれを口実にしていてはアウトプット自体が覚束なくなる以上、今後も生みの苦しみには真正面から向き合っていくしかないのかもしれない。

 

ルース・ベネディクト『菊と刀』感想

 

菊と刀: 日本文化の型 (平凡社ライブラリー)

菊と刀: 日本文化の型 (平凡社ライブラリー)

 

 

 文化人類学者のルース・ベネディクト(1887-1948)は、1944年6月にアメリカ戦時情報局から日本文化の研究を命じられる。アメリカやその他西洋諸国での戦争における常識が日本にはまるで通用せず、しかも戦争の早期終結およびその後の効率的な占領統治を大きく左右することから、アメリカは日本文化を詳細に把握する必要に迫られていたのだ。しかし当の日本は他ならぬ敵国であるという事実が、この課題をフィールドワーク抜きで行わなければならない極めて難しいものにしていた。

 

 ベネディクトはこの難題に、日本で育った者や日本を訪れた経験がある西洋人への聞き取り、小説や映画などを含む膨大な資料の調査、加えて文化人類学者としての手法や観察眼等を用いて立ち向かった。これらによって得られた知見をベースに本書は著され、この本を書くに至った経緯を始めとして戦時中や明治以前・以後の日本を概説し、他者から与えられる「恩」とそれに報いる「義務」や「義理」の細目を分析する。そこから人情(というよりは快楽の方が分かりやすいが)と対立する徳や修養、最後には日本での子育て事情に触れた上で、ベネディクトは戦後日本の復興に期待を寄せる。

 

 本書は刊行以来識者たちからの批判に晒されてきたが、その多くは数々の事実誤認や、有名な「恥の文化」と「罪の文化」の断定的な対比をあげつらっている。ただ事実誤認自体は些細なものがほとんどであり、また今の日本でも問題を起こした個人を「罪深い」というよりは「恥知らず」だと謗る傾向が強い。あるいは読者が安直に自らに当てはめて内容を否定する向きもあると思われるが、ここで述べられているのは敗戦直後以前の日本であるため、現代日本の私たちが自己を投影する対象としてはあまり好ましくはない。むしろ戦前の日本と今の日本とを比較し、その差異や共通点を整理する方が賢明ではないかと自分は考える。

 

 例えば第二章では、戦中日本における

  • 階級序列への信頼と確信
  • 精神の物質に対する優越
  • 天皇への無条件かつ無制限の忠誠心
  • 「傷物の商品」への蔑視
  • 戦時捕虜が見せた180度の方向転換

 などが挙げられている。これらは今となっては奇異とも異常とも捉えられかねないが、実はいずれも現代日本には負の側面として、もしくは形を変えて受け継がれているのだ。上記5点を纏めれば

 日本では「階級序列への信頼と確信」が顕著であり、戦時中にはその頂点に君臨する「天皇への無条件かつ無制限の忠誠心」が存在していた。ところがこの忠誠心は「戦時捕虜が見せた180度の方向転換」からも窺えるように、現実には十分代替可能なものだった。一方で「精神の物質に対する優越」も一部ではまだしぶとく生き残っているので、これが前述の「階級序列への信頼と確信」と密接に結び付き、言葉は悪いが無能や障害者のような「『傷物の商品』への蔑視」が水面下で蔓延る結果となっている

 とでも言い表せよう。ピンとこないならば

 等をそれぞれ思い起こしてもらいたい。更に言えば、第十章にてベネディクトは「日本において人を『誠実』と呼んだところで、もっともその人物の心を占める愛や憎しみ、決意や驚嘆に、その人物が『偽りなく』行動しているか否かは無関係だ」と指摘しているが、この「誠実」を自己にではなく他者に求める(≒「義理」の)風潮は今の日本でもある種の社会通念となっている。良くも悪くも日本社会の根幹は長い時を経てもそれほど変わっていないのである。

 

 とはいえ、戦後70年で日本が全く変わっていないはずもない。家父長制の崩壊はその好例で、第三章にある「成人した息子たちがいる父親でも、自分自身の父親が引退しなければ、この年老いた老人の了承を得ずには何一つ処理することはできない」ような家は余程の名家でもなければ時代遅れも甚だしい。第九章で紹介されている「遊興に出向く夫に対して、妻は着替えや支度をしてやる場合もある。夫が遊んだ店からは妻に対して請求書が届くこともあり、彼女は当たり前のように支払う」話など今では恰好の批判対象だろう。つまり現代日本では家族を構成する個人の意思や権利は程度の差こそあれ保障されており、教育分野でも生徒の個性尊重そのものは大いに喧伝されるところである。

 

 そして個人的に問題視しているのは、この「他者」を重視する社会と「個人」を重視する家庭や教育との間に明確な断絶がある点だ。アメリカを一貫した個人主義社会と定義するならば、戦前の日本は一貫した集団主義社会と見なすことができ、そこでは制度の善悪を抜きにしても家庭・教育から社会へと比較的無理のない移行が可能であったと考えられる。戦前への回帰がタブーとされる中で今後ますます少子化が加速する以上は、日本社会全体で一個人の存在を大切にしていくべきではあるまいか。