嶺上の桜雲

読書・デレステ・その他日常についての思索など

座禅を始めて3ヶ月

 最近では瞑想(マインドフルネス)や座禅がブームとなっており、GoogleやYahooといった大企業が取り入れるなど、その勢いには目覚ましいものがある。しかしどちらも科学的な裏付けはあるにせよ、ネット上にある体験文(特に瞑想)には大抵ある種の胡散臭さが付き纏っているため、個人的にはこの種の文章にはあまり感心できずにいた。そこで自分としてはなるべく科学的な視点から座禅の効果を紹介した上で、3ヶ月間続けてきた感想を簡単に綴ってみたい。

 

 瞑想や座禅の効果には

  • 精神の安定およびストレスの解消
  • 集中力や記憶力の上昇
  • 免疫機能の向上

 など様々なものが挙げられるが、これら全ての根本要因となるのは三大神経伝達物質の1つであるセロトニンの増加だろう。他の2つにはドーパミンノルアドレナリンがあり、前者は快楽ややる気を司る一方で、過剰になると統合失調症や各種の依存症を引き起こすとされる。後者はストレスに反応して不安や恐怖といった感情を生み出し、過剰分泌により躁状態や高血圧などの原因となる。この両者の暴走を抑え、精神の安定を保つのがセロトニンの働きだ(なおセロトニンの過剰でも、発汗や震えが主症状のセロトニン症候群をもたらす点には注意が必要)。

 

 まず先程示した3点のうち上の2点については、前述のセロトニンの働きから導き出すことができる。加えて睡眠ホルモンのメラトニンはセロトニンを元に生成されるため、セロトニンの増加は良質な睡眠にも繋がると考えられる。間接的にではあるが、睡眠もこの2点に寄与していると見てもそう間違いではないだろう。残る1点は免疫機能の向上であるが、セロトニンが不足すると免疫に関与するホルモンのコルチゾールが多く分泌され、免疫力の低下を招くに至る。よってセロトニンが増えることでコルチゾールの分泌が抑制され、結果として免疫機能が向上するのは自然の流れだと言えよう。

 

 またセロトニンは呼吸や歩行といったリズム運動で増えるため、恐らくはジョギングやウォーキングでも似たような効果自体は得られると思われる。ただしここでは個人的に座禅を続けてきた感想を述べるのが本来の目的であるから、そちらに関しては機会があれば考察を検討する程度に留めておきたい。それではこれまでの記述を踏まえ、以下に自分が座禅中あるいは座禅後に実感できた効果をいくつか例示していこう。

 

  • ある程度三昧(=無心)状態に慣れた

 最初は15分から始めてみたものの、数分もすればイヤーワームが暴れ出して結局最後までそのままだったり、あるいは精神的に辛くなって「まだ15分経たないのか」と終わるのを待ち焦がれたりすることも多かった。しかし1ヶ月ごとに時間を5分ずつ増やしていくにつれて、次第にイヤーワームを楽に抑え込むと同時に三昧の状態を比較的長く持続できるようになったと感じている。

 

  • 体温が上がる

 始めた時期が7月の中旬だったせいもあり、最初の頃は気温の暑さと体温の上昇を全く区別できていなかった。ところが暑さが引いたしばらく前からは、明確に座禅によって体温が上がっていることを十分に確かめられた。セロトニンには体温調節作用があるので、冷え性の自分としては今後厳しさを増す冷え込みの中でも大いに助けとしたいところである。

 

  • ストレスに大きく左右されにくくなった

 今でも些細な物事で一喜一憂したりはするのだが、以前に比べてその振れ幅がやや小さくなったと言えば分かりやすいかもしれない。脳にある扁桃体は主に恐怖などの情動に関わるとされるが、ハーバード大の研究では8週間の座禅によってこの部位が縮小したことが明らかとなっている。自分にもこれと同じ現象が起こっていると考えてもそれほど問題はないはずだ。

 

 以上の点から窺えるように、個人的にはあまり劇的な効果があったとは言い難い面がある。ただ調べたところ自分は体質上セロトニンが不足しやすいため、実際には冒頭で言及したような神秘体験には初めから与れないだけかもしれない(まあ仮にできたとしてもそうするつもりは更々ないが)。少なくとも座禅はなんら効果がないというわけでは決してないので、過度な期待はせずにいるぐらいがちょうどいいのではあるまいか。

 

〇参考ページ

三大神経伝達物質:セロトニンとドーパミンとノルアドレナリン | 快適.Life

コルチゾールの働き

 

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オースティン『自負と偏見』感想

 

自負と偏見 (新潮文庫)

自負と偏見 (新潮文庫)

 

 

 5人姉妹のベネット家は男子の跡継ぎがいないために家屋敷を相続できず、主人公の次女・エリザベスの母であるミセス・ベネットは娘たちを早く結婚させようと躍起になっていた。そこにジェントリの好青年・ビングリーが彼の姉妹や友人・ダーシーと共にベネット家近くの屋敷に引っ越し、これを好機と見なした近隣の住民も加わって舞踏会が開かれる。長女・ジェインはビングリーと意気投合するが、ダーシーから密かに好意を寄せられたエリザベスは彼の高慢さを嫌うのだった。

 

 その後紆余曲折を経てエリザベスはダーシーからの予期せぬ求婚を拒絶するが、翌日に彼から手渡された手紙を読んで自身の彼に対する偏見を自覚する。更に叔父夫婦と一緒に訪れたダーシーの屋敷では偶然彼と出くわし、当初エリザベスが抱いていた嫌悪は徐々に好意へと変化した。その直後に五女・リディアが義勇軍の将校・ウィッカムと駆け落ちした旨の報せが届くも、その後始末を陰でダーシーがほぼ全て請け負ったことをリディアの失言から知ったエリザベスは、認めまいとしていた彼への好意を確信するに至る。

 

 それ以前にダーシーの策略でジェインと引き離されていたビングリーはようやく彼女との婚約が成立し、エリザベスもダーシーからの再度の求婚を受け入れるのだった。個人的にはこの本のタイトルは『高慢と偏見』の方がしっくりくるのだが、原題のPride and Prejudiceの"Pride"には自分の想像以上に訳しにくい面があるものと解釈したい。600ページ以上の長編ではあるが、基本的には読みやすい文章なので読了は然程苦労しないと思われる(ただ後述の要素により読むのが苦痛になる人は一定数いるだろうか)。

 

 まず全体を通してやたらと目に付くのが、ミセス・ベネットを始めとする一部キャラクターの愚かしさである。ミセス・ベネットやリディアは無知で自己中心的な上に騒がしく、これでは夫のミスター・ベネットやダーシーが嫌になるのもよく分かる。一方で三女のメアリーやベネット家の屋敷の相続権を持つ牧師・コリンズは、発言自体は馬鹿丁寧ではあるものの内容が薄く、こちらも裏に自己中心的な考えがじわりと滲んでいるのだ。正直なところ、こんな面子と付き合っているエリザベスや彼女の親友・シャーロットの精神力には本当に恐れ入る。

 

 とここまでは散々な書きっぷりだが、上記も含めて本作の描写にはかなりのリアリティがあるため、初読時はさておき再読した今では名作の評価も納得である。しかし今回もこれはどうなのかと思わざるを得なかったのが、中盤にあたる第四十三章の冒頭だ。叔父夫婦と旅行に来たエリザベスがペンバリーにあるダーシーの屋敷に行くのを躊躇うものの、彼が帰って来ないことを知り渋々承諾した直後の場面である。

  ペンバリーの森が姿を現すのを馬車の中から見たエリザベスは、軽い胸騒ぎを覚えた。門番小屋の前で曲がっていよいよ敷地に入ったときには、心は激しくわなないていた。(中略)エリザベスは会話などしていられる気分ではなかったが、次々に眼に入る美しい眺めにはことごとく感銘を受けた。(中略)エリザベスは感激した。これほどまでに自然の良き力が感じられる場所、自然の美が下手な趣向でいじくり回されていない場所を見るのは初めてだ。三人はみな、言葉を極めて周囲の風景を称えた。ふと、エリザベスの心をこんな考えがよぎった――ペンバリーの女主人になるというのは、なかなか大したことなのかも!

 中略部分も含めて、引用部はわずか1ページちょっとに過ぎない。いくらダーシーの屋敷が風光明媚な景色を誇るとはいえ、そのたった1ページちょっとの間に彼の妻になる欲を出すのは流石に唐突過ぎやしないだろうか。そもそもエリザベス自身は行く直前で「いちばん怖いのは、案内されている途中でミスター・ダーシーに出くわす可能性だ。冗談ではない! 考えただけで顔が赤くなった」のに本当にそんなことを考える余裕があるのかと突っ込みたくなる。「恋なんてそんなものだ」と言われればそれまでだが、他の部分では鋭い描写を見せているだけに個人的には残念でならない。

 

 夏目漱石は『文学論』にて「Jane Austenは写実の泰斗なり。平凡にして活躍せる文学を草して技神に入る」と絶賛しているが、人によっては初読時の自分のように「これそんなにベタ褒めするほど面白いか……?」となるかもしれない。また題材が題材なこともあり多少なりとも読む人を選ぶ作品ではあるだろうが、この本で描かれる人間の面白さが当面変わらない点だけは確かだと自分は考える。

 

アリストテレス『ニコマコス倫理学』感想

 

ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)

ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)

 

 

ニコマコス倫理学〈下〉 (岩波文庫 青 604-2)

ニコマコス倫理学〈下〉 (岩波文庫 青 604-2)

 

 

 アリストテレスは、あらゆる人間的な営みの目的は「幸福」つまりはよく生きることに集約され、そのためには人間に固有の卓越性を最大限長く働かせることが必要だとする。そしてその卓越性(=徳)には「知性的卓越性(徳)」とそれに従属する「倫理的卓越性(徳)」とがあり、後者に関しては習慣付けによって身に付けることを奨励した。同時にアリストテレスは徳において過超と不足はいずれも悪徳であり、その中間にある「中庸」を目指すべきだとしている。

 

 以降アリストテレスは勇敢や節制といった各種の倫理的卓越性および正義について考察し、次には学・技術・知慮などの知性的卓越性を取り上げる。更には節制とその過超である放埓に関わる抑制・非抑制と、正義に関連する各種の愛をそれぞれ論じ、最後は快楽論に触れた上で総論にて『政治学』への橋渡しを行った。全十巻の構成で上巻は第一巻から第六巻まで、下巻は第七巻から第十巻までを収録している。

 

 前述の通りこの本は上下巻に分かれているが、今回で上巻のみだと4回、上下巻だと2回通読したことになった。よって下巻はさておき、上巻には流石に自分の身になったと感じる部分も多少は増えてきている。その中でも今回読んでいく中で特に個人的に目を引かれたのが第六巻の知慮について述べた箇所であるため、以下に私見を交えながら書いてみたい。

 

 まず前提として、アリストテレスは物事を「それ以外の仕方においてあることのできないもの」と「それ以外の仕方においてあることのできるもの」とに分類した。知慮はもっぱら後者に関わり、アリストテレスはこれを「人間的な諸般の善に関しての、ことわりがあってその真を失わない実践可能の状態」と定義している。この状態を活かしている人の例としては「家政・経済にたけたひとびと」や「国政にたけたひとびと」などが挙げられており、要は全般的にやりくりや立ち回りが上手い人を指していることが分かる。

 

 これだけだと随分と印象が良さそうに聞こえるが、アリストテレスは知慮における徳の重要性もきっちりと指摘している。ここで彼は「与えられた目標へ導くべき諸般のことを行なって首尾よくこの目標に到達しうる能力」として知慮の下位概念である怜悧を紹介しているが、続けて「もし、それゆえ、目標がうるわしくある場合にはそれは賞賛さるべき能力なのであるし、もし目標があしきものであるならばそれは邪知にすぎない」と断言するのだ。

 

 そして自分が思うに、今の日本では知慮ではなくこの怜悧が幅を利かせているのではあるまいか。これに関しては教育・学術関連で特に目立つ傾向にあるだろう。つい先日重力波を観測した功績に今年のノーベル物理学賞が贈られたが、その際の記者会見では「重力波は何の役に立つのか」という質問が出たそうだ。昨年の医学・生理学賞を受賞した大隅良典氏が「『役に立つ』という言葉が社会をダメにしている」と言ったばかりなのを考えれば、昨今の虚学を軽んじる風潮は随分と根強いものがある。

 

 また最近になって評価の対象になり始めてはいるが、大学での学業成績や学習内容は長らく就職活動ではあまり重視されてこなかった上に、それが世間の常識にもなっていた。そのせいか2,3年前にはL型大学における職業訓練校化の提言や、文部科学省による文系学部廃止の誤報などが大騒ぎになる始末である。悲しいことに日本がこうなった遠因は明治以降の対外情勢にあると自分は捉えているのだが、そちらについてはまたの機会に譲るとしよう。